
01.出航前
昭和19 (1944)年 7月ついにサイパン島が占領されました。政府はお年寄りや子ども女性を島外へ疎開させる命令を出します。

02.出 航
昭和19年8月21日、早朝から那覇港の埠頭に集められた子どもたちはぎらぎらと照りつける真夏の太陽のもと、ひたすら乗船を待ちました。

03.航 海
対馬丸は貨物船でしたが戦争が始まってからは、兵員の輸送にも使われたため、船倉に大きな二段の棚が作られていました。

04.撃 沈
昭和19年8月22日夜10時12分ころ、対馬丸は出港して27時間30分後、アメリカの潜水艦ボーフィン号によって撃沈されました。

05.漂 流
真夜中の海に放り出された乗船者たちは、目の前に浮かぶあらゆる物にすがりつき、生き延びようとしました。

06.救出後
救助された人々は鹿児島県の港に運ばれ上陸しましたが、救助船に気づかれなかった人々は 丸五日間にわたる漂流を強いられます。
対馬丸は那覇港を出航して27時間30分後、
アメリカの潜水艦ボーフィン号によって撃沈されました
昭和19(1944)年8月22日夜10時12 分ごろ、
トカラ列島悪石島の北西約10キロ地点でのことです。
1.いまわしいその時が… 2.対馬丸を攻撃した潜水艦 3.対馬丸撃沈の瞬間
攻撃は、乗船者の多くが深い眠りに落ちていた夜中の出来事であり、10分足らずで沈没したためほとんどが船倉に取り残されました。
また、脱出に成功した人も接近中だった台風の影響で、高波に呑まれ、多大な犠牲を出しました。
ニックネームは「真珠湾の復讐者」
ボーフィン号は1943年8月から1945年7月まで、9回にわたって南西太平洋を中心にパトロールしています。
現在、ハワイ真珠湾のボーフィン記念公園内に実物が展示されています。
ボーフィンはヴィシー・フランスの商船1隻を含む15隻の商船と海防艦1隻、合計で68,032トンの船を沈めた (wikipediaより)。
←以下、『遭難報告書』より
(前略)左舷約八〇度、距離約五〇〇メートルに駛走(シソウ)し来れる数本の雷跡を発見、直ちに取舵一杯(後略)
(前略)回避を試みたるも瞬なく第一魚雷は船首前方を通過、第二魚雷は第一艙(フナグラ)左舷に、続く第二番艙および第七番艙左舷(中略)第五番艙右舷に各一本宛命中(後略)
(前略)被雷後約十分間にして船体いよいよ沈没に瀕するや、船長および連絡将校を最後として各自をして海中に飛び込ましたるがついに二十時二十二分ころ船尾をひねりつつ沈没せり(後略)
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乗船した子どもたちの気持ち 明かりは消え、真っ暗な船倉の中で恐怖の渦の中にいた学童たちは、一刻も早く外に出ようと縄ばしごに群がり大混乱。押し合いへし合い、上がっていこうとする者の足を引っ張る者やそれを振り払う者、落ちる者…。「助けてー!」「おとうさーん!」「おかあさーん!」と悲鳴や泣き叫ぶ声があがっていた。 |
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対馬丸と潜水艦ボーフィン号の航路>> |