01.出航前

昭和16 (1941)年12月8日にはじまった アジア太平洋戦争。
はじめは勝ち戦を続けていた日本でしたが
翌年の夏から敗戦を重ねるようになり
昭和19 (1944)年 7月ついにサイパン島が占領されました。

政府は奄美大島や徳之島・沖縄県のお年寄りや子ども女性を
島外へ疎開させる命令を出します。



 1.サイパンの次は沖縄だ   2.九州への学童疎開  3.学校に入ってきた戦争 



 1.サイパンの次は沖縄だ 

 昭和19 (1944)年 7月7日ついにサイパン島が占領されました。
その後、日本政府より沖縄県庁あてに 「沖縄島、宮古島、八重山島から
老幼婦女子を島外にひきあげさせよ」 の電報が届きます。
サイパン島と沖縄

サイパン島と沖縄




 
 
「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請で政府は奄美大島や徳之島・沖縄県のお年寄り、子ども、女性を島外へ疎開させる命令を出します。

 沖縄からは8万人を本土へ2万人を台湾へ移すことになりました。

 2.九州への学童疎開 

 攻撃目標となりやすい所に住むお年寄りや子ども女性などを田舎に
避難させることを疎開といいました。
沖縄の場合、本土の安全な所に 学校単位の集団で疎開したので学童集団疎開
といいました。
泊国民学校の疎開学童 (宮崎県西諸県郡高原町)

泊国民学校の疎開学童 (宮崎県西諸県郡高原町)




 
 
 沖縄からの疎開は九州(3県)に5,586人となっています。宮崎県に2,643人、熊本県に2,602人、大分県に341人です。
(仲間智秀「沖縄県学童団疎開状況」昭和19年10月1日より)

 3.学校生活に入ってきた戦争 

 昭和16 (1941)年、小学校の名称が国民学校に変わり、学校生活や教科書でも
軍や戦争が表現され始めました。戦争が始まると子どもたちも直接戦闘には参加しないけれど
戦場を後方から支援する戦士として厳しい教育を受けました。
「新日本いろはかるた」より

「新日本いろはかるた」より

 そのため教科書やマンガ、ゲームなどにも戦争が影を落とし、子どもたちの生活も軍や戦争と切り離せないものになっていきました。


兵たいさん「うたのほん 下」より

兵たいさん「うたのほん 下」より


△那覇港に集まった子どもたち

 乗船した子どもたちの気持ち 


 対馬丸が船出をする海は、アメリカの潜水艦によってすでに17隻が沈められていた危険な海でした。
親たちは、子どもを疎開させるかどうか悩み、苦しい決断をしなければなりませんでした。
 子どもたちは「ヤマトへ行ける!」とはしゃいでいましたが、家族と離れる寂しさで不安な気持ちもありました。
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年表「対馬丸と学童疎開」>>