ボクは対馬丸に乗った 〜声の絵本〜

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 対馬丸にのった人たちがどんなじけんにまきこまれたのかを絵本でしょうかいします。
 ちょっとむずかしいかもしれないけれど、わからないところはおとうさんやおかあさん、せんせいにきいて、いっしょうけんめいかんがえてね。

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 ここは、1944年(昭和19年)7月ごろの那覇国民学校(なはこくみんがっこう)。 それはね、サンゴの海にかこまれた美しい南の島、沖縄本島(おきなわほんとう)の那覇市久米(くめ)というところにあったんだ。
 そう、ちょうど今は那覇第一ホテルが建っている、あのあたり。 国民学校というのは、今でいう小学校のことで、戦争が始まる1941年(昭和16年)3月までは尋常(じんじょう)小学校といっていたのが、4月からは国民学校という名前に変わったんだ。
 その頃の那覇には、他に甲辰(こうしん)国民学校、天妃(てんぴ)国民学校、垣花(かきのはな)国民学校、―
泊(とまり)国民学校、久茂地(くもじ)国民学校、松山(まつやま)国民学校などがあったんだよ。
 当時のウーマク(わんぱく)たちは、パッチー(めんこ)やタマグワァ(ビー玉)で遊んだり、カチミンソーリー(鬼ごっこ)をしたり、海で泳いだり、ウージ(さとうきび)畑で戦争ごっこをしたりして、とにかく、まっ黒になるまでよく遊んだんだ。
あれー? 学校なのに、兵隊さんがいっぱい。
 それは、当時の日本がアメリカ軍を中心とした連合軍を相手に戦争をしていたからなんだ。
 「第二次世界大戦」とか「アジア・太平洋戦争」って、聞いたことがあるでしょ? 当時は「大東亜(だいとうあ)戦争」といっていたんだけどね。その戦争は、1941年12月8日に日本がハワイの真珠湾(しんじゅわん)を攻撃(こうげき)したのにはじまり、1945年の8月15日に、天皇へい下が負けたと宣言(せんげん) するまで続いたんだよ。
 だから1944年といえば、日本がどんどん負けそうになっていた時期で、特にこの年の7月7日にサイパンにいた日本軍が全滅(ぜんめつ)してからは、「次は沖縄がやられる」といわれて、本土から10万人*もの兵隊が沖縄に送られてきたんだ。(*先島含む) 港にはたくさんの軍かん、島中たくさんの兵隊さんがあふれ、子どもたちもいつの間にか、元気よく軍歌を口ずさむようになってね。
小さな島に、10万人もの人口がいっきょに増えるとどうなると思う?
まず、食べるものや住むところが足りなくなるよね。
 だから、民家はもちろん、学校の校舎も兵隊さんたちの宿舎にあてられ、子どもたちは民家や木かげで教科書も黒板もなく、床や地面にすわって授業を受けたんだって。
 その授業も、だんだん防空壕(ぼうくうごう)を作ったり、防火訓練(ぼうかくんれん)をしたりして、子どもたちの生活まで、戦争のかげが大きくなっていったもんだから、こんな状況では、子どもたちは落ち着いて勉強もできないし、なにより、このまま沖縄にいては危ないということで、本土や台湾へ疎開(そかい)させるようにと、国が命令をだしたんだ。
 疎開(そかい)というのは、敵の攻撃(こうげき)をさけるために、安全なところへ移り住んで避難(ひなん)すること。
 でもね。  沖縄はまわりを海に囲まれた島だから、疎開するには、敵の潜水艦(せんすいかん)がいる危険な海を渡らなくてはいけないんだよ。その頃はもう、海は戦場になっていたからね。
 自分の子どもをそんな危ない目にあわせたくないからとか、親もとをはなれて疎開先でちゃんと生活できるのかとか、家族がはなればなれになるのはさびしいからとか、いろいろな理由で、疎開を希望する人はなかなか集まらなかったんだ。
 困った先生たちは、子どもたちの家を1軒1軒まわって一生けんめい疎開(そかい)をすすめたんだ。
「子どもたちが乗る船は軍かんだから安全ですよ」、
「子どもたちを安全なところで落ち着いて勉強させてあげたいですね」、
「もうすぐアメリカ軍がやってくるから沖縄は危ないです」、ってね。
 ムラの中は戦車が走りまわるようになっていたし、先生のお話を聞いて、迷っていた人たちも、だんだんと子どもたちを疎開に出す決心をしていったんだって。
 子どもたちも疎開(そかい)の話でもちきり。
たいていの子どもは、疎開に行きたくて仕方なかったんだ。
 なぜかというとね、本土へいけば雪がみられるし、かっこいい軍かんにも乗れるし、電車にも乗れる。富士山とか、桜の花とか、沖縄では見られないものがたくさん見られると思っていたからね。
 中には、親が「行きなさい」とすすめても疎開をいやがる子どももいたけど、ほとんどの子が修学旅行(しゅうがくりょこう)にでも行くような気分で、疎開を楽しみにしていたんだ。
うわー。たくさんの人。
 ここは、那覇港の近くにある西新町のうめ立て地、国民劇場前の広場だよ。今日は朝早くから、疎開(そかい)に行く人たちと見送る人たちが集まっているんだ。
いっしょに行く友だちとはしゃいでいる子、
お母さんやお父さんとお別れをしている子、
待ちくたびれて、つかれてしまった子・・・。
あ、ほら。遠くに大きな船が見えるでしょ?
あの船に乗って疎開に行くんだ。
うわー。この船かあ。とっても大きいね。
でも…あれ? 軍かんじゃないぞ。
 軍かんで行くと聞いていたのに、目の前の船は、どう見ても貨物船だ。窓ひとつない。少し不安になった子もいたけど、軍かんの蓮(はす)と宇治(うじ)が守ってくれるから大丈夫だよと先生たちにいわれて安心した。
 この船は対馬丸(つしままる)といって、イギリスで造られたんだって。長さは135.64メートルで、6,745トン。とにかく大きいでしょう。だけど、自転車と同じくらいの早さしか出せない、とても古い船なんだ。黒くて大きくて、なんだか重苦しい感じがするけど、何度も危険を乗り越えてきた運のいい船なんだって。
 対馬丸は大きすぎて港に入れないから、ちっちゃなボートで沖まで行って、そこで対馬丸に乗り込んだんだ。近くで見る対馬丸はさらに大きく見えて、まるでぜっぺきのよう。なわばしごの階段はゆらゆらゆれるから、とてもこわくて、のぼるだけでもひと苦労だったんだよ。
さあ、いよいよ出発の時間だ。
 国民学校の学童(がくどう)が826人、一般の人たち835人、合計1,661人を乗せた対馬丸は1944年(昭和19年)8月21日の夕方6時35分頃、他の疎開船、暁空丸(ぎょうくうまる)、和浦丸(わうらまる)、そして二隻の護衛(ごえい)かん、蓮(はす)と宇治(うじ)といっしょに、九州をめざして、しゅっぱ~つ!
 港ではみんなの無事(ぶじ)をいのりながら、見送りの人たちがずっと手をふっている。
だけど・・・
ほとんどの人が、これが最後のお別れになっちゃうんだ。
 これが対馬丸(つしままる)の中。 子どもたちが寝る場所は、船倉(せんそう)といって、船の一番下にあるところ。だから甲板(かんぱん)から長いはしごを降りないといけないんだけど、このなわばしごもゆらゆらゆれてこわかった。
 おまけにこの船倉には窓もないから、とてもむし暑くて暗いんだ。そんなところで、2段になったかいこ棚(たな)のようなところで寝かされたんだよ。
 軍人さんからいろんな注意を受けた。敵に見つからないようにってね。
1.海にものをすてないこと
2.夜は灯りをつけたり、甲板に出ないこと
3.指揮官(しきかん)や先生のいうことをよくきくこと
4.大声をだしてさわいだり、歌をうたったりしないこと
 でも、子どもたちは修学旅行気分で大はしゃぎ。大さわぎして、先生におこられる子どももいてね。2日目の夜は、疲れと船よいからみんなぐっすり寝ていた。
 ちょうど鹿児島県の南西にある悪石島(あくせきじま)という島の近くを通っていた時に・・・。
ドーン!!!
 ものすごい音と衝撃(しょうげき)。
 そして、プールの水をいっぺんにひっくりかえしたように海水がどっと流れこんできた。
いったい、なにが起こったの?
 対馬丸が、アメリカ軍の潜水艦(せんすいかん)「ボーフィン号」に魚雷(ぎょらい)でやられてしまったんだ。さっきもいったように、そのころ海はすでに危険な戦場だったからね。
 衝撃で飛び起きた子、疲れていてなかなか起きられない子、起きても寝ぼけている子、はね飛ばされた時の衝撃で死んでしまった子も・・・。
 みんな、早く船から脱出(だっしゅつ)しないと死んじゃうよ!!
急がなきゃ!!
 子どもたちは外にでようと、真っ暗な船倉(せんそう)の中を上に出るはしごをさがしてみんないっせいに押しよせたんだ。船の中は大パニック。
「たすけてー」「おかあさーん」
「せんせーい」「こわいよう」
 子どもたちは泣きさけびながら一生けんめい、甲板(かんぱん)にあがろうとした。
「おーい、こっちだ!こっちへ来い!」あっちの方から先生の声がする。
 けれど、真っ暗でなにも見えないから、なかなか行けないよ。
なわばしごもすごくゆれるからなかなかのぼれないし・・・
ドーン!!ドーン!!
また魚雷が命中した!みんな、急いで!!
 やっと甲板に出たけれど、今度は海に飛び込まなくちゃいけないんだ。だけど、こんな高いところから海に飛びこむのは誰だって怖いよね。対馬丸に乗るときだって、とってもこわかったのに・・・。
 でも、そんなことをいっている場合じゃないよ。先生たちがかける合図にあわせて、みんなは勇気を出して、次々と飛びこんだんだ。
いち、にーの、さんっ、それぇ!!
 こわくて飛びこめない子どもは、大人たちが海に放りなげていた。だって、もう対馬丸はまっぷたつに割れていて、船先は空高く上をむいているんだもの。早く飛びこまないと船といっしょに沈んでしまうから。
ボーン!!
 対馬丸は火柱をあげながら海の底に沈んでいった。逃げることができなかったたくさんの子どもたちといっしょに・・・。最初の魚雷(ぎょらい)が命中してから、わずか11分後のことだったんだ。
 沈没(ちんぼつ)の衝撃(しょうげき)で、ボートやいかだがひっくり返った。うずまきが発生して、それにのみこまれていった人たちもたくさんいた。
 そのころはもう、いっしょに出発した暁空丸(ぎょうくうまる)も和浦丸(わうらまる)も守ってくれるはずだった護衛艦(ごえいかん)の蓮(はす)と宇治(うじ)も、どこへ行ったのか、見えなくなっていたんだ。
 暗い海に投げ出された人たちは、浮いているいかだにむらがっていかだに乗れなかった人たちは、木材やたるや浮いているものにつかまって夜が明けるのを待っていたんだ。
夜が明ければ、助けが来ると思っていたからね。
 助けを求める悲鳴(ひめい)や泣き声が、夜ふけの暗い海にひびいていたけど、その声も時間がたつとともにだんだん少なくなっていったんだ。
 そして朝になった。
太陽がのぼり、明るくなった海面には数え切れないぐらいの死体が浮いていた。
きっと、すぐに助けに来てくれるはず。
みんなはそう信じて、必死にがんばっていたんだよ。
 いかだに乗っている人たちは、重みで腰(こし)までずぶぬれ。
ずっと海水につかっているから、白くふやけてただれ、太陽の日差しもとっても強いから、顔は日焼けでまっ黒け。
髪の毛も日焼けと潮風でちりちり。
うわー、サメだ! こわいよー!!
いかだのまわりを、サメがぐるぐると泳いでいるよ。
いかだから落ちてしまうと、体をくいちぎられちゃうんだ。
 食べるものもなくて、飲むお水もなくて、みんなはどんどん弱っていった上に、台風が近づいていて、波が荒かったから、いかだから振り落とされないように、みんなありったけの力で、必死にしがみついていた。
 でも、昨日までとなりにいたおばあさんや小さな子どもが波にさらわれて、朝にはいなくなったりもした。
 台風がさった日の夜・・・。
空にはきれいな星がたくさん。海まできらきら光っているね。それはね、夜光虫という海の生きものなんだよ。きらきら、きらきら・・・。きれいでしょ。
 だけど、そのきれいな星や夜光虫の光を見ている人たちは、大変だったんだ。昼はあんなに暑いのに、夜はとっても寒くて、こごえ死んじゃう人もいたし、寝ると死んじゃうから寝たらダメと、みんなで声をかけあって、ずっと起きていたから、ねむくてねむくて・・・。
 そんな時は、むこうに那覇の町が見えるんだ。お祭りや学校やおうちやなつかしい風景(ふうけい)が・・・。みんな、早くそこに行きたくて走っていこうとするんだ。だけど、それはまぼろしで、本当はそこは海だから、海に飛びこんで死んでしまう人もいたんだよ。
 そんな日が続いて、みんなはすっかり弱りきってしまったんだ。日に日にいかだに乗っている人たちも少なくなってきてね。
いつになったら助かるんだろう・・・。
どこに流されているんだろう・・・。
 海に投げだされた人たちは大きく分けて、九州の鹿児島の方に流された人と、南の奄美大島(あまみおおしま)の方に流された人とに分かれたんだ。
 鹿児島の方に流された人たちは、まだ運がよかったんだ。なぜかというと、ほとんどの人が2~3日のうちに、漁船(ぎょせん)や軍の船に助けられたからね。
 遠くに見える船に気づいてもらえるように、シャツをふったり、ありったけの声をふりしぼって助けをよんだりしたんだって。
 反対の南の奄美大島の方に流された人たちは、助けが来なかったから、ほとんどの人が6~7日間も漂流(ひょうりゅう)していたんだ。
 浜辺に打ち上げられた時には、声を出すことも立って歩くこともできなかったんだって。
 奄美大島の大和(やまと)村、宇検(うけん)村、実久(さねく)村の海岸には、対馬丸に乗っていた人たちの死体がたくさん打ち上げられていてね。
 村の人たちがていねいに並べて、ござをかけてくれていたんだけど、生き残った人たちは、その死体を見て大泣きしたんだ。
 だって、いっしょに元気に疎開に出発したお友だちや家族や知り合いがいっぺんに死んでしまったんだもの。
 生き残った人たちは鹿児島の旅館でしばらく休んで、そこから、宮崎県、熊本県、大分県のそれぞれの疎開先に出発して行った。
 さびしさとひもじさをがまんして、つらく苦しい疎開先での生活を乗りこえて、やっと戦争が終わって沖縄にもどったとき、子どもたちを待っていたのは、沖縄戦で焼け野原になったふるさとと、待ってくれているはずの家族の死だったんだ。
 沖縄に帰る人たちは憲兵(けんぺい)さんに連れられてこっそり帰ったんだ。
 憲兵さんというのはね、日本が戦争で負けていることや秘密(ひみつ)にしていることをだれかがしゃべらないように見はりをする役目の人のことで、戦争をしていたそのころの日本では戦争に反対する人やスパイなんかをきびしく取りしまっていたんだ。
 憲兵さんって、なんだかこわそうだよね。対馬丸が沈められたことは秘密にされていたから、子どもたちがだれかにしゃべらないようにずっと監視(かんし)していたんだ。
 だから、那覇についても外から見えないようにほろのついたトラックに乗せられて、警察(けいさつ)に連れていかれたんだよ。
なんにも悪いことをしていないのにね。「対馬丸のことはいっさい、口にしないこと。
もし、ひとことでもしゃべればスパイとしてじゅうで殺す」とおどされもしたんだ。
 やっとのことでおうちに帰ると、一緒に疎開にいったお友だちの家族や近所の人たちが集まってきた。
 対馬丸のことは秘密にされていたけど、うわさにはなっていたから、みんな、自分の子どもや家族や知り合いのことを聞きたかったんだ。
 だけどなにかひとことでもいったら、スパイとして殺されちゃうからなにもいえなくて、自分のお母さんにさえひとこともいえなくて、とってもとってもつらかったんだよ。
 1944年(昭和19年)8月22日の夜10時35分ごろ、悪石島(あくせきじま)付近の海に沈められた対馬丸。
 疎開に希望をふくらませていた、たくさんの子どもたちは、雪をみることもなく、電車や軍かんに乗ることもなく、富士山や桜の花を見ることもなく、この暗くて、冷たくて深い海の底に閉じこめられてしまった。
 その後、対馬丸の船体は発見されたんだけど、引きあげることもできなくて、対馬丸も沈められた人たちも、今もまだ、海の底に沈んだままなんだ。
 こんな悲しい戦争を二度とくり返さないためにみんなの明るい未来のために平和の大切さを考えていくことが大事なんだ。
 みんなも対馬丸を通して、戦争と平和について考えてみようね。

 
 
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