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対馬丸(つしままる)というのは、1944年 (昭和19年)8月22日にアメリカ軍のせんすいかん・ボーフィン号に攻げき されて、海にしずめられた船の名前です。
そのころ、日本はアメリカを中心とした連合軍(れんごうぐん)と戦争をしていて、すでに負けそうになっていました。
7月7日にサイパンがやぶれ、次は沖縄があぶないといわれて、お年よりや女性や子どもたちを沖縄から避難(ひなん)させることが決まったのです。
疎開船対馬丸(そかいせん つしままる)
対馬丸記念館ワークブックより
戦争などにそなえて人や物を別の場所へ移すことを「疎開(そかい)」といいます。
お年よりや女性・小さな子どもたちが家族ごとに疎開することを「一般疎開(いっぱんそかい)」、学校ごとに生徒たちと先生が疎開することを「学童疎開(がくどうそかい)」といっていました。
対馬丸は5隻の船団をくんで那覇港を出発しましたが、長崎へ向かうとちゅう、鹿児島県(かごしまけん)の悪石島(あくせきじま)近くで、ボーフィン号の魚雷(ぎょらい)にやられました。
アメリカの潜水艦 ボーフィン号
対馬丸記念館ワークブックより
子どもたちは、「九州に行けば雪がみられる」「汽車にも乗れる」「富士山にのぼってみたい」と、疎開することを、まるで修学旅行(しゅうがくりょこう)に行くみたいにはしゃいでいたそうです。
でも、そのささやかな夢はかなえられないまま、深い海の底へしずめられてしまいました。
真夜中の海に放(ほう)り出された人々は目の前に浮(う)かぶあらゆる物にすがりつき、必死(ひっし)に生き延(の)びようとしました。
筏(いかだ)で漂流
対馬丸(つしままる)が沈没(ちんぼつ)した海域(かいいき)は潮(しお)の流れが速く、さらに台風の影響(えいきょう)で波も荒(あら)く、翌朝(よくあさ)までに多くの人々が力つきて海底へと沈(しず)んでいきました。
対馬丸に乗っていた疎開者は1,661名。(船員や兵隊を入れると全部で1,788名)その半分は学童疎開の子どもたちでした。皆さんと同じぐらいの7才から14、5才の子どもたちが大ぜい乗っていたのです。
でも、ほとんどの人が対馬丸といっしょにしずんでしまいました。亡くなった人は全部で1,418名、そのうち学童は775名です。
でもこれは、現在名前がはっきりわかっている人数で、確かなことはいまだにわかりません。
対馬丸が沈められたとき、何名が生き残って何名が亡くなったのか、くわしい調査はされませんでした。
生き残った人には「対馬丸が沈められたことを話すな」という命令が出されました。
たくさんのお友だちや家族をうしなって生き残った人たちのなかには、いまだに自分が対馬丸に乗っていたことを話せずにいる人もいるのです。
髙良政弘さんからの手紙
手紙の内容について「一行たりとも隣近所の者に知らしてはなりません。極秘(ごくひ)です」と念を押し、箝口令(かんこうれい)がしかれていたことを裏(うら)付づけています。
775人の子どもたちを含む多くの人々は、今もまだ、その暗くて冷たい海の底に眠っています。
戦争はいつだって、何の罪(つみ)もない人々や、たくさんの子どもたちまでもまきこんでしまいます。この悲しみを二度とくりかえさないためには、どうしたらいいでしょうか。
●対馬丸記念館ワークブック(小学校高学年以上対象)