06.救出後
救助された人々は鹿児島県の山川港や鹿児島港に運ばれ上陸しましたが救助船に気づかれなかった人々は丸五日間にわたる漂流を強いられます。
さらに救出後も、警察や憲兵から「撃沈の事実は決して語ってはいけない」という「箝口令(かんこうれい)」がしかれ、さらなる苦しみがはじまるのです。
撃沈現場から150kmの漂流
全速で現場に向かった私たちが見たものは無数に浮かぶ遺体でした。しかし、小さな鰹(カツオ)漁船。かろうじて生き延びた人々を乗せるのがやっとだったのです。
撃沈現場から150kmの漂流をへて対馬丸撃沈から6日目の朝、奄美大島の大和村・宇検村・実久村(現在は瀬戸内町)の海岸線には多くの遺体が漂着しました。
一方、21名の生存者が保護され、宇検村の集会場などで村民による手厚い介護をうけました。
漂流者の辿り着いた場所
箝口令、新たな苦しみ
上の画像は、疎開後二ヶ月余り経つのに消息の分からない弟を訪ねる手紙です。対馬丸撃沈事件については厳重な箝口令(かんこうれい)が敷かれていたという(箝口令=ある事柄に関する発言を禁じること)客観的な資料が遺族の手紙です。
『髙良政弘さんからの手紙』
両親と弟・妹7名の計9名を対馬丸で失った、髙良政弘さん(当時19歳、鹿 児島高等農林学校に在学中)が、沖縄に残る祖父母にあてた手紙。
妹千代さん(当時17歳)と弟政勝ちゃん(当時4つ)は幸いにも救助されました。
「秘」で始まるこの手紙は、撃沈から10日足らずの8月31日に書かれています。
千代さんと力を合わせて政勝ちゃんを「必ず立派にします」と記し、「力を落とさんで下さいませ」と祖父母を励ましています。
また、手紙の内容について「一行たりとも隣近所の者に知らしてはなりません。極秘です」と念を押し、箝口令がしかれていたことを裏付けています。
髙良政弘さんから沖縄に残る祖父母にあてた手紙
乗船した子どもたちの気持ち
家の前まで来ると、ふだん病床にいる姉がたまたま気分がよかったのか、外に立っているのが見えた。姉と私の目が合った。
私の帰沖のことは知らされてなかったので、姉は最初は驚いた様子だった。姉は私を亡霊ではないかと思ったのだろう。
私は姉の方へ走っていった。姉は飛び込んできた私をひしと抱きしめた。
(上原 清 著 『対馬丸沈む』 より)